ツイン
※バスなしトイレなし
わが家じゃないけど わが家みたい いつもと違うけど いつもみたい そんなペンションをつくりたいと思っています ペンションの周辺は遊び場所がたくさん 釣りもピクニックも楽しめます あそび疲れたら ペンションいっぺき湖へいらしてください わが家は林の中 バードウォッチングが楽しめます 好きな本をたくさん持って 読書にあきたら温泉へ そんなゆったりした時間も過ごせます 思いっきり遊びたい人 のんびり休養したい人 さわやかに過ごして頂けるよう お手伝いしたいと思います わが家のつもりでいらしてください お待ちしています。
[ プラン内容 ]
このページでは 越部禅尼と御成敗式目をご紹介します。
阿仏尼の鎌倉滞在中、越部禅尼の話が出てきます。禅尼の父は藤原盛頼、母は藤原俊成の娘八条院三条。父親が鹿ヶ谷の陰謀の巻き添えを受けたことで、祖父俊成の下で育てられる。承久の乱の後、禅尼の領地、越部庄にも地頭が置かれる。この新補地頭によって庄園が搾取を受けていると鎌倉幕府へ訴えた。当時の執権は北条泰時、泰時は即座に地頭の横暴を止めさせた。またこの訴えをきっかけにして幕府では、御成敗式目の編纂が進められる。阿仏は禅尼の例を挙げ、自分も同じ歌の家、御子左の一族であると十六夜日記で語っている。
禅尼に話を戻すと、泰時の歌「世の中に麻は跡なくなりにけり 心のままの蓬のみして」にかこって「君ひとり跡なき麻の数しらば のこるよもぎが数をことわれ」と詠い、地頭の横暴の事実を添えて北条泰時へ訴えた。
吾妻鏡はこの時の出来事を、記事に残します。
1229寛喜元年10・26相州紅葉の林間を点じ、結構の儀有り、源式部太夫源親行伺候す、御鞠の後、和歌御会あり。
1230寛喜2年3・11駿河の守重時朝臣、六波羅に候せんが為に上洛。3・19将軍家三崎の磯に出御、山の桜花尤も盛りなり相州、武州以下参らる。連歌あり散位親行、平胤行等各秀句を献ぜらる。4・11六波羅の匠作時氏下着し給う、去月二十六日駿河守の入洛に依りてなり。11・7西国庄公の地頭の中、領家預所の訴えに依りて、糾弾せらるるの時、二ヶ度下知せしむるの上、猶叙用せずば注し申すべきの由、六波羅へ仰せらる。
1231寛喜3年4・21承久兵乱の後、郡郷庄保新補地頭の所務の事、五ヶ条の率法を定められ六波羅へ仰せ遣はさる。
1232貞永元年8・10武州の造らしめ給う御成敗式目、其篇を終えらる、今日以後、固く此法を守りて、裁許せらる可きの由定めらる。
この記事からは越部禅尼のために開かれた歌会の様子、西国の治安を守るため、北条重時を時氏に代えて六波羅へ送った事、また御成敗の式目が造られるに至った経緯が分かります。禅尼は晩年、越部の庄園へ向かう、その時の歌が続古今集に残る。「わすられぬ もとの心のあり顔に 野中の清水 かげをだに見じ」禅尼の歌は俊成卿娘として数々の勅撰集に入ります。